半年分罪けがれを払う神秘の輪
――茅の輪の知られざる起源と歴史を探る
~6月の行事を学び直す~
■「季節行事」の意味と由来を知る・6月編
■腰に下げる輪がくぐれる大きさになるまでの驚きのいきさつ
おやおや!と思われたかもしれない。
そうなのだ。『備後国風土記』が編纂された時代(8世紀頃)には、茅の輪は腰に下げるものであった。おそらく輪の大きさは直径7~8センチ程度だっただろう。
それがなぜ人がくぐれる大きさになったのか。
そこには知られざる厄除けグッズが関わっていたらしい。知られざる厄除けグッズ、それは菅貫(すがぬき)という。布で作られた襷(たすき)状の輪で、平安時代の貴族はこれを首からかぶって夏越しの祓えを行った。
これは筆者の推測だが、管貫に罪けがれを移して川に流すといったことをしたのだろう。幸いなことに平安末期に描かれた『年中行事絵巻』に小さく描かれているので、菅貫がどのようなものだったのかおおよそのことがわかる。絵巻では乳児を抱いた乳母が女房に菅貫をかけてもらっている。
(図は『年中行事絵巻』をもとに作成したものだが、菅貫がわかるよう便宜的に赤く塗ってある。実際にどんな色をしていたかは不明)。
どうした経緯なのか詳細はわからないが、この管貫と茅の輪が鎌倉時代頃に混同されるようになった。
それがわかるのは室町幕府の将軍の儀礼だ。
当時の記録によると、将軍は6月晦日の夜、ムシロの上で茅の輪を三度くぐったという。ただし、今のようなくぐり方ではない。お付きの者が茅の輪を脇で支え、ゆっくりと回転させてくぐらせていたのだ。一種の縄跳びと言ってもいいかもしれない。将軍がまじめな顔で輪を跳んでいる様子を想像すると、少しおかしい。
こうした茅の輪くぐりは江戸時代の出雲大社や鹿島神宮でも行われていたが、輪をくぐるのは宮司だけで、参詣者が参加することはなかった。
実は、今もこの方式の茅の輪くぐりを伝えているところがある。
それはなんと東大寺なのである。
解除会(げじょえ)といって、大仏殿の大仏前で2人の僧が大きな茅の輪を支え、これを回して僧たちをくぐらせていく。
解除会は7月の下旬、今年は28日に行われる。
法要後、一般の参詣者も茅の輪をくぐることができるが、この時は茅の輪は固定されている。人数が多いので、僧が支えて回転させるのでは対応しきれないのだろう。現在の神社の茅の輪くぐりが固定式になったのも、同様の理由からと思われる。
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